Accueil / BL / 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜 / 第六話 逃げる理由がなくなった

Partager

第六話 逃げる理由がなくなった

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2026-02-06 19:00:49

 朝、目が覚めると最初にすることがある。

 枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。

 通知は、ない。

 以前は、そんな朝が当たり前だった。仕事の連絡、友人からのメッセージ、ニュースの通知。画面にはいつも何かが表示されていて、それが湊を外の世界に繋ぎとめていた。

 今はもう、何も届かない。

 連絡先を整理した。鷹宮と一緒に、一件ずつ確認しながら連絡先を消していった。とはいえ、以前から頻繁にやり取りをしていたわけではない。消えたところで、実際には何も困らない。

 困らないはずなのに、なぜかあれ以来、通知を待っている自分がいた。

 西村からのメッセージが届いたとき、胸が温かくなった。久しぶりに、鷹宮以外の誰かが自分のことを気にかけてくれている。それだけで、息ができるような気がした。

 でも同時に、鷹宮の隣であのメッセージを受け取ったとき、背中を冷たいものが滑り落ちたのも確かだった。

 だったら、誰からも何も届かない方がいい。

 鷹宮に詮索されるのが嫌なわけではない。ただ、面倒ごとは避けたかった。波風を立てたくなかった。ここでの暮らしを、壊したくなかった。

 湊はベッドの上でスマートフォンの画面を眺めていた。何も表示されていない静かな画面だ。それを見つめているだけなのに、何か悪いことをしているような気がして落ち着かない。

 きょろきょろと部屋の中を見回した。

 誰もいない。見られていない。

 それを確認して、ようやく息を吐いた。

 おかしい。

 自分の部屋で、自分のスマートフォンを見ているだけなのに。誰かに見つかることを恐れている。

 いつからこうなったのだろう。いつから、自分の行動を監視されていることが当たり前になったのだろう。

 廊下から、足音が聞こえた。

 規則正しい、迷いのない歩調。鷹宮だ。湊を起こしに来たのだろう。毎朝、同じ時間に、同じリズムで。

 予想通り、ドアがノックされた。

「おはよう。今日はもう起きていたのか」

 鷹宮が部屋に入ってきた。すでにスーツを着ている。いつもと同じ、隙のない姿。

「はい」

「カーテンまで開けてあるな。すっかり、ここでの生活にも慣れたようだ」

 鷹宮の声に、わずかな満足が滲んでいた。

「そうですね。毎日規則正しい生活をさせていただいているので」

「そうか。それはいいことだ」

 鷹宮がベッドに近づいてきた。

 ベッドに座ったままの湊の顔を覗き込むように、屈む。指先が、湊の頬に触れた。

 やわらかく、撫でるように。

「体調もよさそうだ」

 心臓が、小さく跳ねた。

 触れられることに、慣れ始めている自分がいた。最初は驚いていたのに、今は身体が強張らない。むしろ、その指先の温度が心地いいとさえ感じてしまう。

「いつも通り、十分後に朝食だ」

「……はい」

 鷹宮が部屋を出ていく。

 湊は、触れられた頬に手を当てた。まだ温度が残っている気がした。

 いつものようにシャワーを浴びて、脱衣所に用意された服を着た。

 今日は白いシャツと、カーキのパンツ。シンプルで、清潔感のある組み合わせ。鷹宮が選んだ服は、いつも湊の肌の色によく似合った。

 ――自分で選ぶより、ずっといい。

 そう思ってしまう自分に、もう違和感を覚えなくなっていた。

 ダイニングに向かうと、朝食が準備されていた。今朝は和食だった。焼き魚と味噌汁、小鉢が二品。ごはんは少なめによそってある。湊の食べられる量を、鷹宮はもう把握していた。

 席について、手を合わせた。

 鷹宮も同じように「いただきます」と言って、箸を取る。

 いつも通りの朝だ。静かで、整っていて、穏やかな朝。

 食事の途中で、鷹宮が口を開いた。

 いつもは食事中に会話を好まない人が、自分から話し始めるのは珍しかった。

「今日の予定は?」

 その質問に、湊は少し驚いた。今日は平日だ。予定を聞かれるのは、いつも週末のことだった。

「えっと……いつも通り、会社に行って仕事をする以外は特に……」

「そうか。なら、今日は会社に来なくていい」

 湊の箸が、止まった。

「え?」

 来なくていい。

 その言葉が、解雇通知のように聞こえた。背筋に冷たいものが走った。

 ――切られる。必要なくなった。もうここにいなくていいと言われる。

「今日は僕が一日外回りで会社にいない。秘書の仕事は三崎ひとりで十分だから、君は休んでいい」

 鷹宮が、淡々と説明した。

 解雇ではなかった。ただの休日だ。

 湊は、自分の中を駆け抜けた恐怖の大きさに驚いた。クビになることが怖いのではない。ここでの居場所を失うことが、怖かったのだ。

「は……い。そうおっしゃるのであれば」

 三崎はもともとひとりで社長秘書をこなしていた。仕事量を考えても、秘書室に人を増やす必要があるほど忙しくはない。湊がいなくても、何も困らない。

 ――俺がいなくても、回る。

 その事実が、胸の奥をちくりと刺した。

「ああ、それから」

 鷹宮が、何気ない口調で付け加えた。

「君のクレジットカードだが、預かっておく。制限がかかって使えないのは承知しているが、今後の管理は僕がする。ネット通販で必要なものがあれば、書き出しておいてくれ。僕が買う」

「……わかりました」

 クレジットカードは使えないから、預かられても実害はない。

 実害はないのに、また一つ、自分のものが減った気がした。

 最近は自分で買い物をすることもない。現金すら必要ない。食事は鷹宮が用意し、服は鷹宮が選び、買い物は鷹宮が代行する。

 自分で決めることが、何もない。

 食べるものも。着るものも。行く場所も。会う人も。

 すべて、鷹宮が決めている。

 ――楽だ。

 その感覚が、もう当たり前になっていた。

 自分で考えなくていい。迷わなくていい。間違えなくていい。

 与えられたものを受け取って、言われた通りに動けばいい。

 それがどれほど楽なことか、湊は身をもって知ってしまった。

 朝食の後、鷹宮を玄関で見送った。

「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 ドアが閉まる。鍵がかかる音がして、静寂が降りてきた。

 ひとりぽつんと、広いマンションに取り残された。

 嫌な気は、しなかった。

 それが一番怖いことだと、湊はまだ気づいていなかった。

 翌日、出社すると三崎に声をかけた。

「昨日は急にお休みしてすみませんでした」

「いえ、社長から連絡をいただいていましたし、昨日は仕事も落ち着いていたので問題ありませんよ」

 三崎は穏やかに答えた。笑顔を見せている。でも、眼鏡の奥の目が、笑っていないように見えた。

 それが湊への不満なのか、別の何かなのか、分からなかった。

 ――俺の存在が、迷惑なのだろうか。

 本当は休む必要などなかった。鷹宮が「来なくていい」と言ったから、休んだだけだ。三崎ひとりで十分に回る仕事だ。湊がいてもいなくても、変わらない。

 三崎に対する後ろめたさが胸の奥でくすぶったが、社長室のインターフォンが鳴った。

「朝倉くん、来てくれ」

 鷹宮の声だ。湊は「失礼します」と三崎に会釈して、社長室に向かった。

「お呼びですか」

「ああ。昨日、訪問した相手の名刺だ。データの入力を頼む」

 手渡されたのは十枚ほどの名刺だった。どれも今まで取引のない会社のものだ。

 鷹宮は、都心にビルを構える会社の社長だ。本来なら、営業などする必要はない。けれど自ら新規の取引先を開拓するタイプの経営者のようだった。まだ若いから、社長室にじっと座っていられない性格なのかもしれない。

「わかりました」

 湊は名刺を受け取って、自席に戻った。

 十枚の名刺のデータ入力は、すぐに終わった。会社名、部署、名前、電話番号、メールアドレス。淡々と打ち込んでいく。単純な作業だけれど、集中できる。手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。

 入力を終え、名刺を持って社長室に戻った。

「入力終わりました」

「もう終わったのか」

 鷹宮が、目を細めた。

「君がやると早いな。助かるよ」

「そんな……大した量ではなかったですし……」

「謙遜するな」

 鷹宮が、椅子の背にもたれかかった。デスクの向こうから、湊を見上げている。

「もう、君なしでは仕事が回らないな」

 その言葉が、胸に落ちた。

 ――君なしでは、回らない。

 必要とされている。ここにいる意味がある。

 鷹宮にやわらかく微笑まれると、本当にすごいことをしたような気になってしまう。ただの名刺入力だ。誰にでもできる単純作業だ。それなのに、鷹宮に褒められると、自分に価値があるように錯覚する。

 今まで、こんなふうに認めてもらったことがなかった。前の職場では、ミスを指摘されることはあっても、良い仕事をしたと言われることはほとんどなかった。建前だとしても、嬉しい。

「ところで」

 鷹宮が、不意に言った。

「今日は昼食を一緒にどうだ? いい店を見つけたんだ」

 急な誘いだった。けれど、断る理由がない。

「はい。喜んで」

 鷹宮のそばにいてもいいと言われている。そう思うだけで、身体の力が抜けた。

 ここにいていいのだ。必要とされているのだ。

 その安堵が、ゆっくりと湊を浸していた。

 昼食は、会社から車で十分ほどの場所にあるイタリアンレストランだった。

 白を基調とした店内は、天井が高く、窓からやわらかい光が差し込んでいる。平日の昼間だからか、客はまばらだった。奥のテーブルに通されると、鷹宮が先に椅子を引いた。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 椅子を引いてもらうなど、経験したことがない。恋人にされるようなことを、雇い主にされているのだ。その違和感をもちつつも、悪い気はしなかった。

 メニューを開いたが、値段が書いていなかった。

 値段のないメニュー。湊が今まで入ったことのない世界だ。

「好きなものを頼むといい」

「えっと……鷹宮さんと同じものでいいです」

 自分で選ぶのが怖かった。この店の作法も分からないし、何を頼むのが正解なのかも分からない。鷹宮に合わせておけば、間違いはない。

「そうか」

 鷹宮がホールスタッフに注文を伝えた。料理名が流暢に出てくる。慣れた口調だった。こういう場所に、日常的に来ているのだろう。

 料理が運ばれてくるまでの間、鷹宮はワイングラスの水を傾けながら湊を見つめていた。

「君は、外に戻りたいと思うか?」

 唐突な質問だった。

「外、ですか?」

「この生活の外だ。前のように、ひとりで暮らして、ひとりで働いて」

 湊は、答えられなかった。

 外。

 前の暮らし。ネットカフェで身を縮めて眠り、コンビニのおにぎりを齧り、取り立て屋に怯えながら過ごしていた日々。

 あそこに戻りたいかと聞かれたら、答えは明白だ。

 でも、鷹宮が聞いているのは、もっと広い意味の「外」だった。

 ひとりで生きること。自分で決めること。自分の足で歩くこと。

「……今は、考えられません」

 正直に答えた。

「今は、ここにいることだけで精一杯です」

 鷹宮が、グラスを置いた。

「それでいい」

 その声は、穏やかだった。

「君は、ここにいればいい。外のことは考えなくていい。必要なものは全部、僕が揃える」

 ――また、この言葉だ。

 ここにいればいい。外は要らない。僕が全部やる。

 優しい言葉なのに、壁のようにも聞こえた。

 でも、否定できなかった。

 外に出たところで、湊には何もない。仕事も、家も、頼れる人も。西村の連絡先はまだ残っているけれど、連絡を取ることさえ憚られる状態だ。

 ここ以外に、行く場所がない。

 その事実が、安心とも諦めともつかない感覚で胸に沈んでいった。

 会社に戻ると、鷹宮が珍しく早い時間に仕事を切り上げ帰宅した。

「今日は、ゆっくりしよう」

 リビングのソファに並んで座り、鷹宮がテレビをつけた。映画を選んでいるようだった。画面には洋画のタイトルが並んでいる。

「何か見たいものはあるか?」

「鷹宮さんが見たいもので構いません」

 また、自分で選ばなかった。

 選ばないことが、もう習慣になっていた。

 鷹宮が映画を再生すると、暗めの照明に切り替わった。画面の光が、二人の顔を照らしている。

 映画は、湊にはよく分からない内容だった。フランス映画で、台詞が少なく、映像が美しい。鷹宮が好むタイプの映画なのだろう。

 三十分ほど経った頃、湊の瞼が重くなってきた。

 最近、よく眠れている。規則正しい生活と、温かい食事と、清潔なベッド。身体が回復してきているのだと思う。

 ふと、身体が傾いた。

 肩に、何かが当たった。

 ――鷹宮の、肩だ。

 気づいたときには、もう身体が寄りかかっていた。慌てて離れようとしたが、鷹宮の手が湊の肩に回った。

「いい。そのまま」

 低い声が、耳のすぐそばで聞こえた。

 心臓が跳ねた。

 近い。鷹宮の体温が、腕を通して伝わってくる。シャツの生地越しに、肩の固さと温かさが分かる。

「疲れているなら、寝てもいい」

「いえ、大丈夫です……」

 大丈夫ではなかった。

 心臓がうるさい。でも身体は、鷹宮の肩に預けたまま動けなかった。動きたくなかった。

 温かい。

 人の体温がこんなに心地いいと感じたのは、いつぶりだろう。元婚約者と一緒にいたとき以来かもしれない。

 ――いや、違う。

 あれとは、違う。

 元婚約者の温もりは、全部嘘だった。でもこの温度は、本物だ。鷹宮は実際にここにいて、実際に湊を支えている。

 その確かさが、怖いくらいに心地よかった。

 鷹宮の指が、湊の髪にそっと触れた。撫でるように、梳くように、ゆっくりと動く。

「ここにいるのは、嫌か?」

 低い声が、湊の頭のてっぺんから降りてきた。

「嫌じゃ……ないです」

 嘘ではなかった。

 嫌ではない。怖くもない。苦しくもない。

 ただ、心地いい。ただ、安心する。ただ、この人のそばにいると、何も考えなくて済む。

「そうか」

 鷹宮の声が、少しだけやわらかくなった。

「ずっと、ここにいればいい」

 その言葉が、胸に沈んでいった。優しく、深く、取り返しのつかない場所まで。

 映画が終わって、リビングに静寂が戻った。

 鷹宮が立ち上がり、テレビを消した。もうすっかり夜もふけている。

「もう遅い。明日も早いから、休んでくれ」

「はい」

 湊が立ち上がろうとすると、鷹宮が湊の手首にそっと触れた。

「待て」

 振り返ると、鷹宮が湊を見つめていた。

 いつもの、感情の読めない目。でも、その奥に何かが燃えているのが分かった。

「朝倉くん」

「はい」

「君は、もうひとりじゃない」

 その声は、静かだった。

「君の面倒は、僕が見る。生活も、仕事も、これからのことも。全部、僕が引き受ける」

 鷹宮の手が、湊の手首から手のひらへと滑った。指が絡む。

「だから、外のことは、もう忘れていい」

 その言葉は、宣言だった。

 優しさの形をした、明確な宣言。

 湊は、鷹宮の手を見つめた。自分の手を包み込んでいる、大きくて温かい手。

 握り返すべきなのか。振り払うべきなのか。

 ――逃げなければいけない気がする。

 頭の片隅で、そう思った。

 でも、身体は動かなかった。逃げる理由が、見つからなかった。

 ここは温かい。安全だ。必要とされている。守られている。

 それ以上の理由が、何か要るだろうか。

「……ありがとうございます」

 湊は、そう言った。

 鷹宮の手を、握り返した。

 自分でも驚くほど、自然に。

 鷹宮の目が、ほんのわずかに見開かれた。それから、口元がやわらかく緩んだ。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 手が離れた。

 湊は、自分の部屋に戻った。

 ベッドに座って、握り返した手を見つめた。

 まだ温かい気がした。

 ――逃げる理由が、なくなった。

 ここにいればいい。ここにいたい。ここしかない。

 その三つの言葉が、同じ意味になっていることに、湊は気づいていなかった。

 それが、安心なのか、檻なのか。

 もう、区別がつかなくなっていた。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第三十話 逃げられると思っていた

     朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十九話 それでもここにいる

     湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十八話 囲う理由

     ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十七話 選ぶこと

     目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十六話 処理された過去

     もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十五話 檻の中の日常

     雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第十七話 戻ってきた場所

     日曜日も、いつもと同じ朝がやってきた。 同じ時間に起きてシャワーを浴び、用意してもらった服を着て朝食を取る。 今までと、なにも変わらない。 それでも湊の心は、ふわふわと浮ついていた。 昨日、雄一と甘い夜を過ごした。あれほど深く繋がった。あれほど愛を確かめ合った。 そのことを思いだすだけで、頬が熱くなる。雄一のちょっとした言葉や視線で、顔が赤くなってしまう。 だから、今日からは、もう少し甘い生活になるのかと思っていた。 恋人らしく、手を繋いだり、寄り添ったり。そういうことが、増

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第十五話 嘘がバレた夜

     リビングに戻った瞬間、空気が変わっていることに気づいた。 部屋の空気が、重い。 息をしているのに、酸素が肺に入ってこないような感覚がした。それどころか、空気の圧力が高まり、肺の中の空気まで押し出されていくような息苦しさがあった。 湊は、ごくりと唾を飲み込んだ。 ソファに座った。いつもと同じ場所。いつもと同じやわらかいクッション。なのに、今日は底なし沼に沈み込んでいくような感覚がした。 すぐ隣に、雄一が座った。 近い。いつもより近い気がする。 こっそりと、雄一の表情を盗み見た。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第十二話 居場所

     雄一のマンションは、防音性が高かった。 窓を閉め切っていると、外の音がほとんど聞こえない。車の音も、人の声も、街の喧騒も。まるでこの場所だけが、世界から切り離されているような感覚になる。 高層階だからだろうか。窓を開けても、外の音は遠い。爽やかな風が吹き込んで、カーテンがゆらゆらと揺れる。たまに飛行機の音が聞こえるくらいで、地上の気配はほとんど届かない。 湊は窓辺に立って、眼下に広がるビル群を見下ろした。 ――俺が、こんな場所に住んでいる。 まだ信じられなかった。数週間前まで、ネットカフェで夜を明かしていた

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第七話 檻の内側

     目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。 それだけで、心が凪いだ。 よかった。まだ、ここにいる。 鷹宮の家で目覚めることに、安堵している自分がいた。毎朝、同じ天井を確認しては、同じ安心を得ている。ここにいられる。まだ追い出されていない。 この場所を失ったら、今度こそ終わりだ。路上に戻る勇気も、ネットカフェで生き延びる体力も、もう残っていない。 だから、なんとしてもここにいなければならない。 今日は、鷹宮が部屋に来る前に起き上がった。自分から動いた方がいいし、言われる前にやった方がいい。そうすれば

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status