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第六話 逃げる理由がなくなった

Autor: 海野雫
last update Data de publicação: 2026-02-06 19:00:49

 朝、目が覚めると最初にすることがある。

 枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。

 通知は、ない。

 以前は、そんな朝が当たり前だった。仕事の連絡、友人からのメッセージ、ニュースの通知。画面にはいつも何かが表示されていて、それが湊を外の世界に繋ぎとめていた。

 今はもう、何も届かない。

 連絡先を整理した。鷹宮と一緒に、一件ずつ確認しながら連絡先を消していった。とはいえ、以前から頻繁にやり取りをしていたわけではない。消えたところで、実際には何も困らない。

 困らないはずなのに、なぜかあれ以来、通知を待っている自分がいた。

 西村からのメッセージが届いたとき、胸が温かくなった。久しぶりに、鷹宮以外の誰かが自分のことを気にかけてくれている。それだけで、息ができるような気がした。

 でも同時に、鷹宮の隣であのメッセージを受け取ったとき、背中を冷たいものが滑り落ちたのも確かだった。

 だったら、誰からも何も届かない方がいい。

 鷹宮に詮索されるのが嫌なわけではない。ただ、面倒ごとは避けたかった。波風を立てたくなかった。ここでの暮らしを、壊したくなかった。

 湊はベッドの上でスマートフォンの画面を眺めていた。何も表示されていない静かな画面だ。それを見つめているだけなのに、何か悪いことをしているような気がして落ち着かない。

 きょろきょろと部屋の中を見回した。

 誰もいない。見られていない。

 それを確認して、ようやく息を吐いた。

 おかしい。

 自分の部屋で、自分のスマートフォンを見ているだけなのに。誰かに見つかることを恐れている。

 いつからこうなったのだろう。いつから、自分の行動を監視されていることが当たり前になったのだろう。

 廊下から、足音が聞こえた。

 規則正しい、迷いのない歩調。鷹宮だ。湊を起こしに来たのだろう。毎朝、同じ時間に、同じリズムで。

 予想通り、ドアがノックされた。

「おはよう。今日はもう起きていたのか」

 鷹宮が部屋に入ってきた。すでにスーツを着ている。いつもと同じ、隙のない姿。

「はい」

「カーテンまで開けてあるな。すっかり、ここでの生活にも慣れたようだ」

 鷹宮の声に、わずかな満足が滲んでいた。

「そうですね。毎日規則正しい生活をさせていただいているので」

「そうか。それはいいことだ」

 鷹宮がベッドに近づいてきた。

 ベッドに座ったままの湊の顔を覗き込むように、屈む。指先が、湊の頬に触れた。

 やわらかく、撫でるように。

「体調もよさそうだ」

 心臓が、小さく跳ねた。

 触れられることに、慣れ始めている自分がいた。最初は驚いていたのに、今は身体が強張らない。むしろ、その指先の温度が心地いいとさえ感じてしまう。

「いつも通り、十分後に朝食だ」

「……はい」

 鷹宮が部屋を出ていく。

 湊は、触れられた頬に手を当てた。まだ温度が残っている気がした。

 いつものようにシャワーを浴びて、脱衣所に用意された服を着た。

 今日は白いシャツと、カーキのパンツ。シンプルで、清潔感のある組み合わせ。鷹宮が選んだ服は、いつも湊の肌の色によく似合った。

 ――自分で選ぶより、ずっといい。

 そう思ってしまう自分に、もう違和感を覚えなくなっていた。

 ダイニングに向かうと、朝食が準備されていた。今朝は和食だった。焼き魚と味噌汁、小鉢が二品。ごはんは少なめによそってある。湊の食べられる量を、鷹宮はもう把握していた。

 席について、手を合わせた。

 鷹宮も同じように「いただきます」と言って、箸を取る。

 いつも通りの朝だ。静かで、整っていて、穏やかな朝。

 食事の途中で、鷹宮が口を開いた。

 いつもは食事中に会話を好まない人が、自分から話し始めるのは珍しかった。

「今日の予定は?」

 その質問に、湊は少し驚いた。今日は平日だ。予定を聞かれるのは、いつも週末のことだった。

「えっと……いつも通り、会社に行って仕事をする以外は特に……」

「そうか。なら、今日は会社に来なくていい」

 湊の箸が、止まった。

「え?」

 来なくていい。

 その言葉が、解雇通知のように聞こえた。背筋に冷たいものが走った。

 ――切られる。必要なくなった。もうここにいなくていいと言われる。

「今日は僕が一日外回りで会社にいない。秘書の仕事は三崎ひとりで十分だから、君は休んでいい」

 鷹宮が、淡々と説明した。

 解雇ではなかった。ただの休日だ。

 湊は、自分の中を駆け抜けた恐怖の大きさに驚いた。クビになることが怖いのではない。ここでの居場所を失うことが、怖かったのだ。

「は……い。そうおっしゃるのであれば」

 三崎はもともとひとりで社長秘書をこなしていた。仕事量を考えても、秘書室に人を増やす必要があるほど忙しくはない。湊がいなくても、何も困らない。

 ――俺がいなくても、回る。

 その事実が、胸の奥をちくりと刺した。

「ああ、それから」

 鷹宮が、何気ない口調で付け加えた。

「君のクレジットカードだが、預かっておく。制限がかかって使えないのは承知しているが、今後の管理は僕がする。ネット通販で必要なものがあれば、書き出しておいてくれ。僕が買う」

「……わかりました」

 クレジットカードは使えないから、預かられても実害はない。

 実害はないのに、また一つ、自分のものが減った気がした。

 最近は自分で買い物をすることもない。現金すら必要ない。食事は鷹宮が用意し、服は鷹宮が選び、買い物は鷹宮が代行する。

 自分で決めることが、何もない。

 食べるものも。着るものも。行く場所も。会う人も。

 すべて、鷹宮が決めている。

 ――楽だ。

 その感覚が、もう当たり前になっていた。

 自分で考えなくていい。迷わなくていい。間違えなくていい。

 与えられたものを受け取って、言われた通りに動けばいい。

 それがどれほど楽なことか、湊は身をもって知ってしまった。

 朝食の後、鷹宮を玄関で見送った。

「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 ドアが閉まる。鍵がかかる音がして、静寂が降りてきた。

 ひとりぽつんと、広いマンションに取り残された。

 嫌な気は、しなかった。

 それが一番怖いことだと、湊はまだ気づいていなかった。

 翌日、出社すると三崎に声をかけた。

「昨日は急にお休みしてすみませんでした」

「いえ、社長から連絡をいただいていましたし、昨日は仕事も落ち着いていたので問題ありませんよ」

 三崎は穏やかに答えた。笑顔を見せている。でも、眼鏡の奥の目が、笑っていないように見えた。

 それが湊への不満なのか、別の何かなのか、分からなかった。

 ――俺の存在が、迷惑なのだろうか。

 本当は休む必要などなかった。鷹宮が「来なくていい」と言ったから、休んだだけだ。三崎ひとりで十分に回る仕事だ。湊がいてもいなくても、変わらない。

 三崎に対する後ろめたさが胸の奥でくすぶったが、社長室のインターフォンが鳴った。

「朝倉くん、来てくれ」

 鷹宮の声だ。湊は「失礼します」と三崎に会釈して、社長室に向かった。

「お呼びですか」

「ああ。昨日、訪問した相手の名刺だ。データの入力を頼む」

 手渡されたのは十枚ほどの名刺だった。どれも今まで取引のない会社のものだ。

 鷹宮は、都心にビルを構える会社の社長だ。本来なら、営業などする必要はない。けれど自ら新規の取引先を開拓するタイプの経営者のようだった。まだ若いから、社長室にじっと座っていられない性格なのかもしれない。

「わかりました」

 湊は名刺を受け取って、自席に戻った。

 十枚の名刺のデータ入力は、すぐに終わった。会社名、部署、名前、電話番号、メールアドレス。淡々と打ち込んでいく。単純な作業だけれど、集中できる。手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。

 入力を終え、名刺を持って社長室に戻った。

「入力終わりました」

「もう終わったのか」

 鷹宮が、目を細めた。

「君がやると早いな。助かるよ」

「そんな……大した量ではなかったですし……」

「謙遜するな」

 鷹宮が、椅子の背にもたれかかった。デスクの向こうから、湊を見上げている。

「もう、君なしでは仕事が回らないな」

 その言葉が、胸に落ちた。

 ――君なしでは、回らない。

 必要とされている。ここにいる意味がある。

 鷹宮にやわらかく微笑まれると、本当にすごいことをしたような気になってしまう。ただの名刺入力だ。誰にでもできる単純作業だ。それなのに、鷹宮に褒められると、自分に価値があるように錯覚する。

 今まで、こんなふうに認めてもらったことがなかった。前の職場では、ミスを指摘されることはあっても、良い仕事をしたと言われることはほとんどなかった。建前だとしても、嬉しい。

「ところで」

 鷹宮が、不意に言った。

「今日は昼食を一緒にどうだ? いい店を見つけたんだ」

 急な誘いだった。けれど、断る理由がない。

「はい。喜んで」

 鷹宮のそばにいてもいいと言われている。そう思うだけで、身体の力が抜けた。

 ここにいていいのだ。必要とされているのだ。

 その安堵が、ゆっくりと湊を浸していた。

 昼食は、会社から車で十分ほどの場所にあるイタリアンレストランだった。

 白を基調とした店内は、天井が高く、窓からやわらかい光が差し込んでいる。平日の昼間だからか、客はまばらだった。奥のテーブルに通されると、鷹宮が先に椅子を引いた。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 椅子を引いてもらうなど、経験したことがない。恋人にされるようなことを、雇い主にされているのだ。その違和感をもちつつも、悪い気はしなかった。

 メニューを開いたが、値段が書いていなかった。

 値段のないメニュー。湊が今まで入ったことのない世界だ。

「好きなものを頼むといい」

「えっと……鷹宮さんと同じものでいいです」

 自分で選ぶのが怖かった。この店の作法も分からないし、何を頼むのが正解なのかも分からない。鷹宮に合わせておけば、間違いはない。

「そうか」

 鷹宮がホールスタッフに注文を伝えた。料理名が流暢に出てくる。慣れた口調だった。こういう場所に、日常的に来ているのだろう。

 料理が運ばれてくるまでの間、鷹宮はワイングラスの水を傾けながら湊を見つめていた。

「君は、外に戻りたいと思うか?」

 唐突な質問だった。

「外、ですか?」

「この生活の外だ。前のように、ひとりで暮らして、ひとりで働いて」

 湊は、答えられなかった。

 外。

 前の暮らし。ネットカフェで身を縮めて眠り、コンビニのおにぎりを齧り、取り立て屋に怯えながら過ごしていた日々。

 あそこに戻りたいかと聞かれたら、答えは明白だ。

 でも、鷹宮が聞いているのは、もっと広い意味の「外」だった。

 ひとりで生きること。自分で決めること。自分の足で歩くこと。

「……今は、考えられません」

 正直に答えた。

「今は、ここにいることだけで精一杯です」

 鷹宮が、グラスを置いた。

「それでいい」

 その声は、穏やかだった。

「君は、ここにいればいい。外のことは考えなくていい。必要なものは全部、僕が揃える」

 ――また、この言葉だ。

 ここにいればいい。外は要らない。僕が全部やる。

 優しい言葉なのに、壁のようにも聞こえた。

 でも、否定できなかった。

 外に出たところで、湊には何もない。仕事も、家も、頼れる人も。西村の連絡先はまだ残っているけれど、連絡を取ることさえ憚られる状態だ。

 ここ以外に、行く場所がない。

 その事実が、安心とも諦めともつかない感覚で胸に沈んでいった。

 会社に戻ると、鷹宮が珍しく早い時間に仕事を切り上げ帰宅した。

「今日は、ゆっくりしよう」

 リビングのソファに並んで座り、鷹宮がテレビをつけた。映画を選んでいるようだった。画面には洋画のタイトルが並んでいる。

「何か見たいものはあるか?」

「鷹宮さんが見たいもので構いません」

 また、自分で選ばなかった。

 選ばないことが、もう習慣になっていた。

 鷹宮が映画を再生すると、暗めの照明に切り替わった。画面の光が、二人の顔を照らしている。

 映画は、湊にはよく分からない内容だった。フランス映画で、台詞が少なく、映像が美しい。鷹宮が好むタイプの映画なのだろう。

 三十分ほど経った頃、湊の瞼が重くなってきた。

 最近、よく眠れている。規則正しい生活と、温かい食事と、清潔なベッド。身体が回復してきているのだと思う。

 ふと、身体が傾いた。

 肩に、何かが当たった。

 ――鷹宮の、肩だ。

 気づいたときには、もう身体が寄りかかっていた。慌てて離れようとしたが、鷹宮の手が湊の肩に回った。

「いい。そのまま」

 低い声が、耳のすぐそばで聞こえた。

 心臓が跳ねた。

 近い。鷹宮の体温が、腕を通して伝わってくる。シャツの生地越しに、肩の固さと温かさが分かる。

「疲れているなら、寝てもいい」

「いえ、大丈夫です……」

 大丈夫ではなかった。

 心臓がうるさい。でも身体は、鷹宮の肩に預けたまま動けなかった。動きたくなかった。

 温かい。

 人の体温がこんなに心地いいと感じたのは、いつぶりだろう。元婚約者と一緒にいたとき以来かもしれない。

 ――いや、違う。

 あれとは、違う。

 元婚約者の温もりは、全部嘘だった。でもこの温度は、本物だ。鷹宮は実際にここにいて、実際に湊を支えている。

 その確かさが、怖いくらいに心地よかった。

 鷹宮の指が、湊の髪にそっと触れた。撫でるように、梳くように、ゆっくりと動く。

「ここにいるのは、嫌か?」

 低い声が、湊の頭のてっぺんから降りてきた。

「嫌じゃ……ないです」

 嘘ではなかった。

 嫌ではない。怖くもない。苦しくもない。

 ただ、心地いい。ただ、安心する。ただ、この人のそばにいると、何も考えなくて済む。

「そうか」

 鷹宮の声が、少しだけやわらかくなった。

「ずっと、ここにいればいい」

 その言葉が、胸に沈んでいった。優しく、深く、取り返しのつかない場所まで。

 映画が終わって、リビングに静寂が戻った。

 鷹宮が立ち上がり、テレビを消した。もうすっかり夜もふけている。

「もう遅い。明日も早いから、休んでくれ」

「はい」

 湊が立ち上がろうとすると、鷹宮が湊の手首にそっと触れた。

「待て」

 振り返ると、鷹宮が湊を見つめていた。

 いつもの、感情の読めない目。でも、その奥に何かが燃えているのが分かった。

「朝倉くん」

「はい」

「君は、もうひとりじゃない」

 その声は、静かだった。

「君の面倒は、僕が見る。生活も、仕事も、これからのことも。全部、僕が引き受ける」

 鷹宮の手が、湊の手首から手のひらへと滑った。指が絡む。

「だから、外のことは、もう忘れていい」

 その言葉は、宣言だった。

 優しさの形をした、明確な宣言。

 湊は、鷹宮の手を見つめた。自分の手を包み込んでいる、大きくて温かい手。

 握り返すべきなのか。振り払うべきなのか。

 ――逃げなければいけない気がする。

 頭の片隅で、そう思った。

 でも、身体は動かなかった。逃げる理由が、見つからなかった。

 ここは温かい。安全だ。必要とされている。守られている。

 それ以上の理由が、何か要るだろうか。

「……ありがとうございます」

 湊は、そう言った。

 鷹宮の手を、握り返した。

 自分でも驚くほど、自然に。

 鷹宮の目が、ほんのわずかに見開かれた。それから、口元がやわらかく緩んだ。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 手が離れた。

 湊は、自分の部屋に戻った。

 ベッドに座って、握り返した手を見つめた。

 まだ温かい気がした。

 ――逃げる理由が、なくなった。

 ここにいればいい。ここにいたい。ここしかない。

 その三つの言葉が、同じ意味になっていることに、湊は気づいていなかった。

 それが、安心なのか、檻なのか。

 もう、区別がつかなくなっていた。

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