FAZER LOGIN朝、目が覚めると最初にすることがある。
枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。
通知は、ない。
以前は、そんな朝が当たり前だった。仕事の連絡、友人からのメッセージ、ニュースの通知。画面にはいつも何かが表示されていて、それが湊を外の世界に繋ぎとめていた。
今はもう、何も届かない。
連絡先を整理した。鷹宮と一緒に、一件ずつ確認しながら連絡先を消していった。とはいえ、以前から頻繁にやり取りをしていたわけではない。消えたところで、実際には何も困らない。
困らないはずなのに、なぜかあれ以来、通知を待っている自分がいた。
西村からのメッセージが届いたとき、胸が温かくなった。久しぶりに、鷹宮以外の誰かが自分のことを気にかけてくれている。それだけで、息ができるような気がした。
でも同時に、鷹宮の隣であのメッセージを受け取ったとき、背中を冷たいものが滑り落ちたのも確かだった。
だったら、誰からも何も届かない方がいい。
鷹宮に詮索されるのが嫌なわけではない。ただ、面倒ごとは避けたかった。波風を立てたくなかった。ここでの暮らしを、壊したくなかった。
湊はベッドの上でスマートフォンの画面を眺めていた。何も表示されていない静かな画面だ。それを見つめているだけなのに、何か悪いことをしているような気がして落ち着かない。
きょろきょろと部屋の中を見回した。
誰もいない。見られていない。
それを確認して、ようやく息を吐いた。
おかしい。
自分の部屋で、自分のスマートフォンを見ているだけなのに。誰かに見つかることを恐れている。
いつからこうなったのだろう。いつから、自分の行動を監視されていることが当たり前になったのだろう。
廊下から、足音が聞こえた。
規則正しい、迷いのない歩調。鷹宮だ。湊を起こしに来たのだろう。毎朝、同じ時間に、同じリズムで。
予想通り、ドアがノックされた。
「おはよう。今日はもう起きていたのか」
鷹宮が部屋に入ってきた。すでにスーツを着ている。いつもと同じ、隙のない姿。
「はい」
「カーテンまで開けてあるな。すっかり、ここでの生活にも慣れたようだ」
鷹宮の声に、わずかな満足が滲んでいた。
「そうですね。毎日規則正しい生活をさせていただいているので」
「そうか。それはいいことだ」
鷹宮がベッドに近づいてきた。
ベッドに座ったままの湊の顔を覗き込むように、屈む。指先が、湊の頬に触れた。
やわらかく、撫でるように。
「体調もよさそうだ」
心臓が、小さく跳ねた。
触れられることに、慣れ始めている自分がいた。最初は驚いていたのに、今は身体が強張らない。むしろ、その指先の温度が心地いいとさえ感じてしまう。
「いつも通り、十分後に朝食だ」
「……はい」
鷹宮が部屋を出ていく。
湊は、触れられた頬に手を当てた。まだ温度が残っている気がした。
*
いつものようにシャワーを浴びて、脱衣所に用意された服を着た。
今日は白いシャツと、カーキのパンツ。シンプルで、清潔感のある組み合わせ。鷹宮が選んだ服は、いつも湊の肌の色によく似合った。
――自分で選ぶより、ずっといい。
そう思ってしまう自分に、もう違和感を覚えなくなっていた。
ダイニングに向かうと、朝食が準備されていた。今朝は和食だった。焼き魚と味噌汁、小鉢が二品。ごはんは少なめによそってある。湊の食べられる量を、鷹宮はもう把握していた。
席について、手を合わせた。
鷹宮も同じように「いただきます」と言って、箸を取る。
いつも通りの朝だ。静かで、整っていて、穏やかな朝。
食事の途中で、鷹宮が口を開いた。
いつもは食事中に会話を好まない人が、自分から話し始めるのは珍しかった。
「今日の予定は?」
その質問に、湊は少し驚いた。今日は平日だ。予定を聞かれるのは、いつも週末のことだった。
「えっと……いつも通り、会社に行って仕事をする以外は特に……」
「そうか。なら、今日は会社に来なくていい」
湊の箸が、止まった。
「え?」
来なくていい。
その言葉が、解雇通知のように聞こえた。背筋に冷たいものが走った。
――切られる。必要なくなった。もうここにいなくていいと言われる。
「今日は僕が一日外回りで会社にいない。秘書の仕事は三崎ひとりで十分だから、君は休んでいい」
鷹宮が、淡々と説明した。
解雇ではなかった。ただの休日だ。
湊は、自分の中を駆け抜けた恐怖の大きさに驚いた。クビになることが怖いのではない。ここでの居場所を失うことが、怖かったのだ。
「は……い。そうおっしゃるのであれば」
三崎はもともとひとりで社長秘書をこなしていた。仕事量を考えても、秘書室に人を増やす必要があるほど忙しくはない。湊がいなくても、何も困らない。
――俺がいなくても、回る。
その事実が、胸の奥をちくりと刺した。
「ああ、それから」
鷹宮が、何気ない口調で付け加えた。
「君のクレジットカードだが、預かっておく。制限がかかって使えないのは承知しているが、今後の管理は僕がする。ネット通販で必要なものがあれば、書き出しておいてくれ。僕が買う」
「……わかりました」
クレジットカードは使えないから、預かられても実害はない。
実害はないのに、また一つ、自分のものが減った気がした。
最近は自分で買い物をすることもない。現金すら必要ない。食事は鷹宮が用意し、服は鷹宮が選び、買い物は鷹宮が代行する。
自分で決めることが、何もない。
食べるものも。着るものも。行く場所も。会う人も。
すべて、鷹宮が決めている。
――楽だ。
その感覚が、もう当たり前になっていた。
自分で考えなくていい。迷わなくていい。間違えなくていい。
与えられたものを受け取って、言われた通りに動けばいい。
それがどれほど楽なことか、湊は身をもって知ってしまった。
朝食の後、鷹宮を玄関で見送った。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。鍵がかかる音がして、静寂が降りてきた。
ひとりぽつんと、広いマンションに取り残された。
嫌な気は、しなかった。
それが一番怖いことだと、湊はまだ気づいていなかった。
*
翌日、出社すると三崎に声をかけた。
「昨日は急にお休みしてすみませんでした」
「いえ、社長から連絡をいただいていましたし、昨日は仕事も落ち着いていたので問題ありませんよ」
三崎は穏やかに答えた。笑顔を見せている。でも、眼鏡の奥の目が、笑っていないように見えた。
それが湊への不満なのか、別の何かなのか、分からなかった。
――俺の存在が、迷惑なのだろうか。
本当は休む必要などなかった。鷹宮が「来なくていい」と言ったから、休んだだけだ。三崎ひとりで十分に回る仕事だ。湊がいてもいなくても、変わらない。
三崎に対する後ろめたさが胸の奥でくすぶったが、社長室のインターフォンが鳴った。
「朝倉くん、来てくれ」
鷹宮の声だ。湊は「失礼します」と三崎に会釈して、社長室に向かった。
「お呼びですか」
「ああ。昨日、訪問した相手の名刺だ。データの入力を頼む」
手渡されたのは十枚ほどの名刺だった。どれも今まで取引のない会社のものだ。
鷹宮は、都心にビルを構える会社の社長だ。本来なら、営業などする必要はない。けれど自ら新規の取引先を開拓するタイプの経営者のようだった。まだ若いから、社長室にじっと座っていられない性格なのかもしれない。
「わかりました」
湊は名刺を受け取って、自席に戻った。
十枚の名刺のデータ入力は、すぐに終わった。会社名、部署、名前、電話番号、メールアドレス。淡々と打ち込んでいく。単純な作業だけれど、集中できる。手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。
入力を終え、名刺を持って社長室に戻った。
「入力終わりました」
「もう終わったのか」
鷹宮が、目を細めた。
「君がやると早いな。助かるよ」
「そんな……大した量ではなかったですし……」
「謙遜するな」
鷹宮が、椅子の背にもたれかかった。デスクの向こうから、湊を見上げている。
「もう、君なしでは仕事が回らないな」
その言葉が、胸に落ちた。
――君なしでは、回らない。
必要とされている。ここにいる意味がある。
鷹宮にやわらかく微笑まれると、本当にすごいことをしたような気になってしまう。ただの名刺入力だ。誰にでもできる単純作業だ。それなのに、鷹宮に褒められると、自分に価値があるように錯覚する。
今まで、こんなふうに認めてもらったことがなかった。前の職場では、ミスを指摘されることはあっても、良い仕事をしたと言われることはほとんどなかった。建前だとしても、嬉しい。
「ところで」
鷹宮が、不意に言った。
「今日は昼食を一緒にどうだ? いい店を見つけたんだ」
急な誘いだった。けれど、断る理由がない。
「はい。喜んで」
鷹宮のそばにいてもいいと言われている。そう思うだけで、身体の力が抜けた。
ここにいていいのだ。必要とされているのだ。
その安堵が、ゆっくりと湊を浸していた。
*
昼食は、会社から車で十分ほどの場所にあるイタリアンレストランだった。
白を基調とした店内は、天井が高く、窓からやわらかい光が差し込んでいる。平日の昼間だからか、客はまばらだった。奥のテーブルに通されると、鷹宮が先に椅子を引いた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
椅子を引いてもらうなど、経験したことがない。恋人にされるようなことを、雇い主にされているのだ。その違和感をもちつつも、悪い気はしなかった。
メニューを開いたが、値段が書いていなかった。
値段のないメニュー。湊が今まで入ったことのない世界だ。
「好きなものを頼むといい」
「えっと……鷹宮さんと同じものでいいです」
自分で選ぶのが怖かった。この店の作法も分からないし、何を頼むのが正解なのかも分からない。鷹宮に合わせておけば、間違いはない。
「そうか」
鷹宮がホールスタッフに注文を伝えた。料理名が流暢に出てくる。慣れた口調だった。こういう場所に、日常的に来ているのだろう。
料理が運ばれてくるまでの間、鷹宮はワイングラスの水を傾けながら湊を見つめていた。
「君は、外に戻りたいと思うか?」
唐突な質問だった。
「外、ですか?」
「この生活の外だ。前のように、ひとりで暮らして、ひとりで働いて」
湊は、答えられなかった。
外。
前の暮らし。ネットカフェで身を縮めて眠り、コンビニのおにぎりを齧り、取り立て屋に怯えながら過ごしていた日々。
あそこに戻りたいかと聞かれたら、答えは明白だ。
でも、鷹宮が聞いているのは、もっと広い意味の「外」だった。
ひとりで生きること。自分で決めること。自分の足で歩くこと。
「……今は、考えられません」
正直に答えた。
「今は、ここにいることだけで精一杯です」
鷹宮が、グラスを置いた。
「それでいい」
その声は、穏やかだった。
「君は、ここにいればいい。外のことは考えなくていい。必要なものは全部、僕が揃える」
――また、この言葉だ。
ここにいればいい。外は要らない。僕が全部やる。
優しい言葉なのに、壁のようにも聞こえた。
でも、否定できなかった。
外に出たところで、湊には何もない。仕事も、家も、頼れる人も。西村の連絡先はまだ残っているけれど、連絡を取ることさえ憚られる状態だ。
ここ以外に、行く場所がない。
その事実が、安心とも諦めともつかない感覚で胸に沈んでいった。
*
会社に戻ると、鷹宮が珍しく早い時間に仕事を切り上げ帰宅した。
「今日は、ゆっくりしよう」
リビングのソファに並んで座り、鷹宮がテレビをつけた。映画を選んでいるようだった。画面には洋画のタイトルが並んでいる。
「何か見たいものはあるか?」
「鷹宮さんが見たいもので構いません」
また、自分で選ばなかった。
選ばないことが、もう習慣になっていた。
鷹宮が映画を再生すると、暗めの照明に切り替わった。画面の光が、二人の顔を照らしている。
映画は、湊にはよく分からない内容だった。フランス映画で、台詞が少なく、映像が美しい。鷹宮が好むタイプの映画なのだろう。
三十分ほど経った頃、湊の瞼が重くなってきた。
最近、よく眠れている。規則正しい生活と、温かい食事と、清潔なベッド。身体が回復してきているのだと思う。
ふと、身体が傾いた。
肩に、何かが当たった。
――鷹宮の、肩だ。
気づいたときには、もう身体が寄りかかっていた。慌てて離れようとしたが、鷹宮の手が湊の肩に回った。
「いい。そのまま」
低い声が、耳のすぐそばで聞こえた。
心臓が跳ねた。
近い。鷹宮の体温が、腕を通して伝わってくる。シャツの生地越しに、肩の固さと温かさが分かる。
「疲れているなら、寝てもいい」
「いえ、大丈夫です……」
大丈夫ではなかった。
心臓がうるさい。でも身体は、鷹宮の肩に預けたまま動けなかった。動きたくなかった。
温かい。
人の体温がこんなに心地いいと感じたのは、いつぶりだろう。元婚約者と一緒にいたとき以来かもしれない。
――いや、違う。
あれとは、違う。
元婚約者の温もりは、全部嘘だった。でもこの温度は、本物だ。鷹宮は実際にここにいて、実際に湊を支えている。
その確かさが、怖いくらいに心地よかった。
鷹宮の指が、湊の髪にそっと触れた。撫でるように、梳くように、ゆっくりと動く。
「ここにいるのは、嫌か?」
低い声が、湊の頭のてっぺんから降りてきた。
「嫌じゃ……ないです」
嘘ではなかった。
嫌ではない。怖くもない。苦しくもない。
ただ、心地いい。ただ、安心する。ただ、この人のそばにいると、何も考えなくて済む。
「そうか」
鷹宮の声が、少しだけやわらかくなった。
「ずっと、ここにいればいい」
その言葉が、胸に沈んでいった。優しく、深く、取り返しのつかない場所まで。
*
映画が終わって、リビングに静寂が戻った。
鷹宮が立ち上がり、テレビを消した。もうすっかり夜もふけている。
「もう遅い。明日も早いから、休んでくれ」
「はい」
湊が立ち上がろうとすると、鷹宮が湊の手首にそっと触れた。
「待て」
振り返ると、鷹宮が湊を見つめていた。
いつもの、感情の読めない目。でも、その奥に何かが燃えているのが分かった。
「朝倉くん」
「はい」
「君は、もうひとりじゃない」
その声は、静かだった。
「君の面倒は、僕が見る。生活も、仕事も、これからのことも。全部、僕が引き受ける」
鷹宮の手が、湊の手首から手のひらへと滑った。指が絡む。
「だから、外のことは、もう忘れていい」
その言葉は、宣言だった。
優しさの形をした、明確な宣言。
湊は、鷹宮の手を見つめた。自分の手を包み込んでいる、大きくて温かい手。
握り返すべきなのか。振り払うべきなのか。
――逃げなければいけない気がする。
頭の片隅で、そう思った。
でも、身体は動かなかった。逃げる理由が、見つからなかった。
ここは温かい。安全だ。必要とされている。守られている。
それ以上の理由が、何か要るだろうか。
「……ありがとうございます」
湊は、そう言った。
鷹宮の手を、握り返した。
自分でも驚くほど、自然に。
鷹宮の目が、ほんのわずかに見開かれた。それから、口元がやわらかく緩んだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
手が離れた。
湊は、自分の部屋に戻った。
ベッドに座って、握り返した手を見つめた。
まだ温かい気がした。
――逃げる理由が、なくなった。
ここにいればいい。ここにいたい。ここしかない。
その三つの言葉が、同じ意味になっていることに、湊は気づいていなかった。
それが、安心なのか、檻なのか。
もう、区別がつかなくなっていた。
朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって
湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。
ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に
目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が
もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商
雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。







